人生のサビシリーズ「代々木の幕がよすぎる」

何回でもするし何回でも泣くし他人の思い出でも泣くんですけど、

代々木の幕。
代々木というか2016SJT幕。
2004年に解散しちゃったバンドの再集結で、1曲めがあのメチャクチャな別れ話みたいな曲で。

 

わたしは第1音のジャカジャーン!でマンガくらい泣き崩れて、それは一旦おいといて。幕。
あれタイミングとしてはかなり後、全員の「案外長いこと幕あるな」を経て最後の最後で落ちて、2段階キャーとしてもよい装置だなと思うんだけど。

 

一生中坊あるあるが出て恐縮ですが、JAM前夜、わたしは先に本を読んだりしてて、まあ憧れるのですよ
「感受性が鋭敏すぎるフラジャイルな魂」に。
ところがどうよ、本もふーんて感じだし、泣ける映画を観てもピンとこないし。
中学生でいきなりルイマルの鬼火は勝たん~、って話なんですけど、しょうがないじゃん中学生なんだから。

感性に選ばれた者は望むと望まざるに関わらず極彩色の情報を濁流のように流し込まれ、感覚器が悲鳴をあげていて、
それが羨ましかった。わたしは持ってなかった。わたしという容器は超デッドで、何度鈴を投げ込んでみても反響がなかった。

身体も感覚も存在するのに、スイッチがオフの状態で世の中に触っていた。
払っても払っても膜がぴったり張り付いて皮膚呼吸ができず、なんにも触れられない。
世界もわたしもここにあるのに、肌で触れられないんだと思っていた。

とはいえ劇的に冷めた中学生だったので「本当の自分、がつまり今のコレだろ」と思って逃げ場なかったし、じゃあ思春期の死にたいやつか?って答は否で、「死にたい気持ちにすらアクセス出来てない」。話にならん。
ポンコツは不幸だ。ダサすぎる。でも現実!


スキー合宿でメソメソして、同級生に「こいつ何言ってんだ…?」って顔をされたりしていました。

 


そこから20年はしょって、代々木の幕。
どの趣旨の発案だったかを知らないし、たとえば解散後のファンにはいよいよ幻がヴェールを脱いで現実に!とか、想像でしかなかったものが身を結んでいる御開帳を最大に盛り上げて、とか、全方向からめちゃくちゃいいよね。


でもわたしにはわたしだけの理由があって、あれはわたしへの

「お前の膜かなんかしらんけど、もうないから、これが隔てるものがない世界だ、直接その目で見ろ、触れ」でもあった。

 

 


忘れてたよ、そんなこと。
お前が代わりに覚えてくれてたのか(妄想)。

 

 

え、え~、すき…。